REPORTレポート
代表植村の自伝的記憶
ある起業家の「自伝的記憶」(6)
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東日本大震災が私に与えた気づき
現在、インデックスコンサルティングは建築プロジェクトマネジメント(建築PM)と並び、国内外のPPP(Public Private Partnership:官民連携)プロジェクトの支援がビジネスの柱に育っています。
国内では、医療ツーリズムの一環として奈良県高取町が周辺市町村と進める第4世代の重粒子線がん治療施設建設プロジェクト、地方の有料道路コンセッション(運営権を一定期間、民間に売却すること)プロジェクト、上下水道や公共施設などの官民連携事業が動いています。
また、私個人としては愛知県有料道路や愛知県国際展示場のコンセッションにも県の政策顧問として関わりました(「日本初の有料道路PPP(官民連携)はいかにして実現したか」)。現在も、愛知県が進めるアリーナやインキュベーション施設など、日本初のPPP事業の構築に携わっています。
さらに、海外に目を向ければ、ベトナムのホーチミン市とロンタイン国際空港を結ぶ高速道路の拡幅プロジェクトなど有料道路のPPP事業に関わっていますし、ガーナにおける有料道路のコンセッション事業や付随する低所得者向け住宅、下水整備を含めたPPP事業のプレFS(Feasible Study)にも関与しています。ガーナのプレFSは2019年9月にJICA(国際協力機構)の協力準備調査(PPPインフラ事業)に採択されました。JICAの協力準備調査に採択されたのは、2019年4月の制度改正以来、初めてのケースです。
建築PMコンサルティングファームとしての規模こそ大きくありませんが、国内外における社会インフラ関連のPPPプロジェクトの実績という面では、それなりのものがあると自負しています。
以前の投稿で書いたように、政府債務の対GDP比を抑えるため、途上国はODA(政府開発援助)のような円借款ではなく、民間資金の活用にシフトしています。もちろん、途上国だけでありません。社会インフラの老朽化が深刻な先進国も、新型コロナ対策で財政支出が増大している現状を鑑みれば、インフラの建設や修繕に民間資金の活用が不可欠になるでしょう。今後、世界のインフラ投資はPPPが主流になると見ています。
「環境未来都市」による震災復興
建築PMをメインビジネスにしていたインデックスコンサルティングが社会インフラPPPに進出したきっかけは、2011年3月11日の東日本大震災でした。その日、私は京都に出張中で、遅めのランチで入ったカフェで震災の発生を知りました。東北沿岸を襲う津波の映像をカフェのテレビで見て、慄然としたことを覚えています。そのまま電車を乗り継ぎ、なんとか東京まで戻りました。
リーマンショックのように需要が消滅したわけではないので、すぐにビジネスは再開しましたが、東北地方の惨状を考えると、仕事も手につきません。建築PMを通して被災地に何か貢献しようと、現在、インデックスコンサルティングの社外取締役になっていただいている東京大学の宮田秀明・名誉教授(当時は東大システム創生学科教授)や宮田ゼミのメンバーと地域や復興計画など具体的なプランを練ることにしました。
その時に目をつけたのは、政府が進める「環境未来都市」構想と特区制度によるまちづくりです。
ちょうど前年の2010年に、低炭素社会を目指したまちづくりを目指す「環境未来都市」構想が国家戦略プロジェクトの一つに選ばれ、特区制度を活用することが可能になりました。特区制度を使えば様々な規制緩和ができるので、使わない手はありません。そこで、私と宮田教授は大船渡市、陸前高田市、住田町の二市一町による気仙広域環境未来都市の特区申請と、低炭素社会にあった持続可能なまちづくりを構想立案からサポートすることにしました。
環境未来都市の構想をつくるために、私と宮田教授は毎週のように現地を訪ね、住民の方々と議論を重ねました。気仙地域の復興チームに参加した社員の中には、地元愛が高じて大船渡市に住民票を移した人間もいます。インデックスコンサルティングの経営もあったので正直かなりの忙しさでしたが、毎回、現地に行くのが楽しみで仕方がありませんでした。
目指したのは低炭素社会のモデルになる街
環境未来都市構想で大きな目標として掲げたのは、「環境」「社会」「経済」の3つの価値がバランスよく共存したまちづくりのモデルを構築し、他の東北地方はもとより世界の小規模都市のモデルとなるような地域をつくることでした。そのために、再生可能エネルギー発電所の建設やコンパクトシティの整備、農業や水産業などの産業振興、気仙材を用いた木造住宅の普及、高齢者に優しい医療・介護・福祉のまちづくりの5つをテーマに環境未来都市の計画を進めました。
エネルギーに関しては、蓄電システムを備えた、世界初の地域分散型メガソーラー発電所を建設するとともに、マイクログリッドなど蓄電設備を備えた分散型エネルギーを構築、地産地消型、分散型のエネルギー社会を築くという構想を立てました。
コンパクトシティについては、ライトレールのような高齢者に優しい移動手段とICTが完備された、高齢者の住まいと医療・介護施設、就労場所が一体となったまちづくりを目指しました。産業振興に関しては、植物工場などを含め、農業と農作物の加工や水産加工、林業、住宅産業、エコシティ関連企業の誘致。気仙材を用いた住宅の再興については、森林組合や木材加工、工務店に至る一連の木造住宅生産体制の強化と環境性能に優れたモデル住宅づくりを進めました。
最後の医療・介護・福祉の街づくりについては、医療、介護、保健、福祉などそれぞれのステークホルダーが密に連携を図り、ICTを活用しながら住民が安心かつ快適に暮らせる地域包括ケアの構築です。
この5つのテーマはそれぞれ形になりました。
例えば、エネルギーで言えば、大船渡市と釜石市の境にある五葉山の牧場にメガソーラーを建設、住田町にも地元の林業を生かした木質バイオマス発電付きの木造庁舎を建設しました。コンパクトシティは津波被害を受けた大船渡駅周辺の官民連携組織「キャッセン大船渡」に結実しています。
農林水産業については、林業が盛んな住田町で木質バイオマスとCLT(強度が安定している木質構造用材料)の製造を中心に持続可能な林業の構築が進められていますし、断熱性や気密性、再生可能エネルギーや蓄電池の利用など、高い環境性能を持つ木造住宅の開発にも成功しました。
さらに、地域包括ケアも、大船渡市の県立大船渡病院を中核に、岩手医科大学や住田町の住田医療センター、陸前高田市の県立高田病院、診療所や開業医、調剤薬局、介護施設、訪問看護などと連携した地域包括ケアシステムの基盤組織を立ち上げました。
ある被災者の涙ながらの訴え
こういった構想の背景にあったのは、被災した地域の復興は元に戻すだけでなく、時代に合った形に進化させる必要がある。「東北の復興なくして日本の再生なし」と私と宮田教授が考えていたことによります。
こういった構想の背景にあったのは、被災した地域の復興は元に戻すだけでなく、時代に合った形に進化させる必要がある。「東北の復興なくして日本の再生なし」と私と宮田教授が考えていたことによります。
津波で破壊された堤防を復元しても、また大津波が来れば壊れます。ならば、高台にコンパクトシティをつくり、リスクの高い沿岸部はメガソーラーなど新たな環境ビジネスの拠点にするなど、別の用途を考える。環境未来都市構想とは、本来はそういうものだと思います。
もっとも、こちらの思いを一方的に押しつけても意味がないということも東北の復興支援では痛感しました。
最初は「こうした方がいいんじゃないか」と私と宮田教授の思いを伝えていましたが、ある時、被災者の方に涙ながらにこう言われました。
「『将来のことを考えて』と植村さんたちは理想を言うけれど、私たちは明日生きることに精一杯なんです」
確かに、われわれは震災復興を奇貨に、世界のモデルになるような街をつくれればと考えていました。一方で、地域の人々は自身の生活基盤の立ち上げが最優先で、未来を考えている場合ではありません。東京から来たコンサルタントが夢ばかり語っていると感じたのでしょう。
莫大な国費を投じる以上、被災地をこれからの時代にあった形に進化させる必要があるというのは今も変わらない思いです。ただ、被災した地域には地域の事情があります。今になって思えば、もう少し密にコミュニケーションを取るべきだったと反省しています。私は思いの強い方ですが、時に自分の思いは自我に過ぎず、相手の思いに寄り添う必要があるということを改めて学ばせていただきました。
後にも先にも私だけだった政策参与
実はこの頃、私は国土交通省の政策参与も兼務していました(2011年9月からの1年弱)。
政策参与の話をいただいたきっかけは、老朽化したマンションの建て替え促進を目的に2009年に設立した「老朽化マンション対策会議」です。ちょうど政権交代で民主党政権になった頃で、民主党サイドの窓口は後に国土交通大臣に就任される前田武志・参院議員(当時)でした。その後、前田先生とは対策会議を通じて、様々な話をさせていただきました。
すると、前田先生が大臣に就任された直後、あるフランス料理店に呼ばました。何も知らずに伺うと、前任の国交相だった前原誠司・衆院議員などが参加されています。後から分かったことですが、大臣の引き継ぎを兼ねた会合だったんですね。その場で、前田大臣から政策参与の就任を要請されました。2011年9月のことです。
「国交省は巨大な組織で、それぞれの局の連携が取れていない。持続可能なまちづくりを実現するために、各局の連携強化を図る手伝いをしてほしい」。前田大臣はそうおっしゃいましたが、それまで霞が関とやり取りしたことはほとんどなく、民間の経営者が国交省の政策参与になったのは後にも先にも私だけ。一経営者の私に何ができるのかと不安に思いました。
ただ、名誉なことなのは確かですし、前田大臣の期待に応えたいという思いもあります。何より、よりよい日本を構築するために、建設のプロジェクトマネージャーとしての私の経験をお伝えするのは無駄ではないと考え、政策参与の就任を受諾しました。
官民連携による社会インフラ整備に目覚める
大船渡市など気仙地域と関わりができたのも、前田先生のおかげです。
老朽化マンション対策会議の関係で前田先生のところに挨拶に伺った時に、たまたまいらっしゃった全国老人保健施設協会の川合秀治会長(当時)をご紹介いただきました。そのご縁で、大船渡市で医療法人と介護施設を経営されている木川田典彌先生とつながり、気仙地域で環境未来都市に関わることになったんです。
振り返れば、政策参与時代は民間ではなかなかできない経験をさせてもらいました。「国交省の各局の横連携を深めてほしい」という話しでしたので、各局の課長を集めた政策官チームを立ち上げ、メンバーと一緒に日本の未来や建設・不動産行政について何度も議論しました。震災の現場に行ったことがないというので、政策官チームの皆で気仙地域に連れて行ったこともありますし、経済産業省や農林水産省、厚生労働省などとの連携を取るために、各省庁に出向いたこともありました。
1年弱の政策参与の時代にどれだけの貢献ができたかは分かりませんが、法律や制度を整備する中央官庁と実際に実行する地方自治体で役割が分かれている中、何が課題でどんな解決方法があるのかということを考えるいいきっかけになったのは確かです。何より、官民が連携した社会インフラ整備の重要性に気づくいい機会になりました。
それ以降、建築プロジェクトマネジメント(建築PM)とは別に、プロジェクトの構想段階から企画立案や事業計画をお手伝いするチームを立ち上げました。現在、インデックスグループでは国内外の社会インフラPPPプロジェクトと、学校や医療機関などの事業創造をサポートする先導的プロジェクトが増えていますが、この時のチームが中核になっています。
「ある起業家の「自伝的記憶」(7)」へ続く
「ある起業家の「自伝的記憶」(7)」へ続く
WRITERレポート執筆者
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植村 公一
代表取締役社長
1994年に日本初の独立系プロジェクトマネジメント会社として当社設立以来、建設プロジェクトの発注者と受注者である建設会社、地域社会の「三方よし」を実現するため尽力。インフラPPPのプロジェクトマネージャーの第一人者として国内外で活躍を広げている。
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