REPORTレポート
代表植村の自伝的記憶
ある起業家の「自伝的記憶」(4)
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追い風になったデフレ下の事業リストラ
前回の記事で、時代が建築プロジェクトマネジャーを求め始めていたと書きました。それは不良債権処理によって、建築プロジェクトや建築コストの適正化が強く叫ばれるようになったということを意味しています。
インデックスコンサルティングが本格的に建築プロジェクトマネジメント(建築PM)に乗り出した2000年代前半、日本経済はバブル崩壊に伴う不良債権処理にあえいでいました。過大な債務や不採算事業を抱えて四苦八苦している企業が多く、そういった企業は所有する不動産の売却を通して事業や拠点を再編する必要に迫られました。そうなると、これまでのようにゼネコンに建築プロジェクトを丸投げすることは不可能です。どんぶり勘定ではなく、建築PMを採用し、適正な価格で建物を建てるという強い動機が発注者に生まれたんです。
そんな企業の1社に、ある大手機械メーカーがいました。
奇跡的に獲得できた建築PM業務
この会社は日本を代表する重機械メーカーですが、1990年代後半に数期連続で最終赤字に陥るなど、厳しい状況に置かれていました。そして、この会社は債務を圧縮するため、東京都内にあった製造所の敷地の一部の売却を検討します。製造所は都内の住宅地にあり、高値での売却が見込める土地として白羽の矢が立ったそうです。
ただ、製造所の一部売却にあたっては課題もありました。製造所の売却によって既存工場をどこに移すかという問題です。そして、既存工場の移設と、移設先の工場建設に関してインデックスに相談が来ました。2001年のことです。
当初、この会社は関係の深かったある大手建設会社に話を持ちかけました。過去、この会社の工場建設に深く関わってきたからです。これまでのビジネス慣行であれば、元施工の建設会社に頼むのがごく自然でした。ただ、彼らが提示した価格は厳しい経営状況にある会社には高すぎたようで、あるご縁で私のところに相談が来ました。
独立系と言えば聞こえはいいですが、当時のインデックスは大きな後ろ盾のない無名の会社です。大手設計事務所の関連会社が建築PMを始めつつある中、インデックスに頼むのは財閥系の重厚長大の大企業にとって大変な決断だったと思います。実際、社内の大半は反対だったそうです。ただ、われわれの熱意と計画、推進力に賛同し、未来を託そうと決断したプロジェクトの中心メンバー3人がわれわれを推薦、奇跡的に建築PMの仕事をいただくことができました。
「建屋内建屋」という奥の手
われわれを信頼してくれた人々の期待に応えるため、工場再編の最適化とコスト削減のために全力で取り組みました。
例えば、従来の発注形態は設計事務所と建設会社で設計と施工を分ける分離発注が一般的でしたが、この時の工場移設では、設計施工を一つの建設会社に任せる一括発注を採用しました。
また、日本の建設会社はよく言えば高品質、悪くいえばオーバースペックに建物を作る傾向にありますが、本当に必要なスペックに絞り込むなどして建設コストを下げました。
さらに、今では当たり前ですが、ゼネコンによる設計施工入札を導入、競争環境を整備することでコスト削減も徹底しました。最終的に、建設コストは元施工の建設会社が当初、提示した見積もりの半分程度まで下がったと思います。
建築PMの存在を評価してくれたこの会社は、同時期に検討していた別の製造所の工場改装プロジェクトでも当社を建築PMとして採用してくれました。
経営再建を進める中、液晶テレビ用部品の製造装置向け事業が芽吹きつつあり、製造装置を作る専門会社と、その中の一部装置を作っていたこの機械メーカーで生産ラインを増強する必要がある。ただ、過大な投資はできないため、空き状態だったエンジン工場跡を活用できないかという話でした。
実際に現場を見ると、元エンジン工場というだけあって地盤はしっかりしています。その中に温度と湿度が一定の恒温室をつくれば低コストで済みます。そこで、建屋の中に建屋を作る「建屋内建屋」という提案をしたところ、即採用されました。検討に2カ月半、施工に2カ月半。わずか半年足らずで工場が完成しました。
その後、液晶テレビはパネルの大型化が進行、この会社も工場の増設を続けました。スピーディに対応できたのも、部材や設備を含め、システム化された建屋内建屋という手法をとったからです。
体を張ってくれた顧客に感謝
この機械メーカーだけでなくだけでなく、東京・品川に不動産収益用の大規模オフィスビルを建てた京王電鉄や、本社工場の再編や本社建設に踏み切った日鍛バルブ、さらに地上27階、高さおよそ100メートルの学校と賃貸マンションの複合高層ビル「M.Yamano Tower」を東京・代々木に建てた山野学苑などでプロジェクトマネジャーを務めさせていただきました。これほどの大規模プロジェクトで当社のような独立系がプロジェクトマネジャーを務めるのは当時としては異例のことです。
こういった2000年代前半のクライアント企業と、われわれを信じ、自らの体を張って建築PMに採用していただいた方々がいたからこそ、インデックスは成長し、建築PM市場も認知されたのです。
「ある起業家の「自伝的記憶」(5)」へ続く
「ある起業家の「自伝的記憶」(5)」へ続く
WRITERレポート執筆者
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植村 公一
代表取締役社長
1994年に日本初の独立系プロジェクトマネジメント会社として当社設立以来、建設プロジェクトの発注者と受注者である建設会社、地域社会の「三方よし」を実現するため尽力。インフラPPPのプロジェクトマネージャーの第一人者として国内外で活躍を広げている。
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