REPORTレポート
代表植村の自伝的記憶
ある起業家の「自伝的記憶」(2)
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取引先のまさかの裏切りに遭った若き日
米国留学から戻って家業の材木屋を継いだものの、父親との折り合いが悪く、最後は仕入れた木材分の手形を切って東京に出てきたという話は前回の投稿で書きました。父親の会社に手形を切って独立するというのは、今から考えるとやり過ぎな気もしますが、それでも東京に出てきたかったのです。
もっとも、1年半後に8000万円をつくらなければなりません。その後の1年半は命がけでした。
まずは持っている材木を片っ端から売りました。ただ、こちらには1年半という期間があるので、どうしても足元を見られてしまいます。在庫の材木は売り払ったものの、仕入れ値を大幅に下回る価格でしか売れません。やむを得ず、妻に頭を下げて彼女の貯金を取り崩し、持っていた着物も売ってもらいました。最終的に、銀行から借金をして振り出した手形に対応しました。
それでも、材木ビジネスは自転車操業のような状態で、膨らんだ借金も返していかないといけません。そこで、新しいビジネスを次々に立ち上げました。例えば、メラミン化粧板の輸入です。
メラミン化粧板は熱や傷、汚れに強いプラスチック製の板材で、キッチンの天板や扉、家具などに幅広く使われています。このメラミン化粧板で世界最大手だったウィルソナートという米国の会社を訪問し、日本への輸入総代理店の権利を獲得したんです。2019年11月、アイカ工業がウィルソナートの東南アジア事業を買収するというニュースが出ていましたが、久々にウィルソナートの名前を聞いて当時を思い出しました。
このビジネスは順調でしたが、一方で日本が抱える流通構造の問題と大企業の”怖さ”を知らされることになりました。
「植村さんは抜けてほしい」
メラミン化粧板のビジネスを始めてしばらくして、取引先の問屋さんが深刻な顔でやってきて、こう言いました。「今日から、植村さんとは取引ができない」と。
当時の私は全く理解していませんでしたが、BtoB(企業間取引)の取引では商社がいて、一次問屋がいて、二次問屋がいて、販売店がいてと、多重層的になっています。それぞれが手数料を取るので最終的な定価は輸入した時の代金の2~3倍になる。日本の流通構造なんて知りませんから、ウィルソナートから仕入れたメラミン化粧板を輸入金額に30%の利益を乗せて売っていたんですね。それでも国内メーカーと比較しても破格の安さでした。
すると、国内の大手企業が問屋に、ウィルソナートの商品を扱い続けるのであれば商品を卸さないと圧力をかけ始めた。いくらウィルソナートの商品が安くて高品質だといっても、国内メーカーから干されたら商売ができなくなってしまいます。
国内の商品と比べて破格の安さで売れるのに、わざわざ口銭だけの問屋を通して高く売る意味が分かりませんでしたが、私としてもメラミン化粧板が売れないと借金の返済が滞ってしまいます。そこで、メラミン化粧板を商品ラインナップに加えたいと思っていた大手化学メーカーに話を持ちかけ、大手化学メーカーが日本の総販売元、私の会社が総輸入元という形にスキームを変えました。
これで落ち着いてビジネスに専念できると安堵したら、今度はその会社の裏切りに遭うのですから人生は一筋縄ではいきません。
ある日、ウィルソナートの本社に呼ばれると、先方の副社長と大手化学メーカーの幹部が同席していました。「何かな」と思って話を聞くと、「これからは彼らが輸入も手がける」「半年間の猶予を与えるので植村さんは抜けてほしい」という驚きの内容です。思わず、「は?」と聞き返してしまいました。
後から考えると、「植村切り」の伏線はありました。大手化学メーカーに対する卸値について、何度かもう少し下げられないかという相談を受けていましたが、こちらは借金返済が最優先ですので、聞く耳を持たず、無視していたんです。今から思えば、もっと謙虚に聞いているべきでしたが、後の祭り。それで、パチンと切られてしまった。怒りというよりも、大企業はこういうことをするのかと唖然としたのを覚えています。
ハンバーガーショップの「黒歴史」
新ビジネスという面で言うと、時期は90年代後半とインデックスコンサルティングを創業した後ですが、新ビジネスとしてハンバーガーショップの経営をしたこともあります。
ご存じの方もいるかもしれませんが、米国にA&Wレストランというファストフードチェーンがあります。「ルートビア」を生み出したことで知られており、本土復帰前の沖縄にも進出しています。現在、沖縄県には30店ほどA&Wがあったと思います。そして、私は沖縄県を除くエリアの営業権を取得しました。1998年のことです。
第1号店を同年2月、東京・神谷町にある城山トラストタワー(当時の店名は「城山ヒルズ店」)につくりました。ビルの中にハンバーガーショップをつくったのは、働く人がビルの中でランチをテイクアウトする時代が来ると思ったから。当時はビル内に飲食店はほとんどなく、路面店ばかりでした。わざわざビルの外に出ずにランチを買いたいという需要は間違いなくあると思ったんです。今の状況を見れば、仮説の正しさは証明されているのではないでしょうか(笑)。98年内に5店舗、フランチャイズ店を増やし2003年までに150店舗体制を目指しました。
ただ、飲食店経営は大変でした。1店舗目は目新しさも手伝ってかなりの盛況でした。1日の売り上げも100万円くらいは普通にあったと思います。これで、簡単に儲かると錯覚してしまったのが失敗の要因でした。
飲食店なので日銭はもちろん入りますが、食材の仕入れやアルバイトなど日々の支出も同じだけたくさんあるので、総合的に管理しなければなりません。ただ、1店舗目の成功で気をよくして2店舗目を5月に大森ベルポートに、3店舗目を赤坂ツインタワーに、と矢継ぎ早に店舗を拡大してしまった。そして、4店舗目の開業準備をしている時に、全く儲かっていないことが分かりました。帳簿上の利益は出ていましたが、キャッシュフローが赤字になっていたんです。4店舗でアルバイトは200人以上。これまでBtoBのビジネスしかやってこなかったので、ワケが分からなくなってしまったんですね。
このままでは持たないと思った私はハンバーガーショップの経営から撤退することにしました。リースした機材の解消、輸入した食材の在庫、採用した従業員の解雇など、最終的に2億円以上の損失が出ましたが、あのまま続ければ、傷口はもっと広がっていたでしょう。ご迷惑をかけた社員やアルバイトの方々には本当に申し訳なく思っています。ただ、それだけ会社の生き残りに必死だったんです。
このように、90年代の私は自分のやるべきことを探し求めて、もがき続けていました。ただ、七転八倒を繰り返す中で、現在の建築プロジェクトマネジメント(CPM)につながるヒントを得ることができました。それは、米国最大規模の建築設計事務所を作りあげたGensler(ゲンスラー)創業者のアーサー・ゲンスラーとの出会いです。
「ある起業家の「自伝的記憶」(3)」へ続く
「ある起業家の「自伝的記憶」(3)」へ続く
WRITERレポート執筆者
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植村 公一
代表取締役社長
1994年に日本初の独立系プロジェクトマネジメント会社として当社設立以来、建設プロジェクトの発注者と受注者である建設会社、地域社会の「三方よし」を実現するため尽力。インフラPPPのプロジェクトマネージャーの第一人者として国内外で活躍を広げている。
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