REPORTレポート

植村公一の自伝的記憶

ある起業家の「自伝的記憶」(1)

「手形を振り出せ」と父親に言われた日
 
ここ数年、インデックスグループは従来の建築プロジェクトマネジメントから国内外のPPPや社会インフラにビジネス領域が拡大しています。それに伴って、社外の方々からグループのビジネスそのものや、なぜ建築プロジェクトマネジメント(建築PM)という領域を生み出したのかと質問を受けることも増えてきました。そこで、インデックスグループや建築PMについて、あるいは私自身に関する話を書いていこうと思います。
 
建築PMのパイオニア

まず、建築PMという言葉になじみがない方もいると思いますので簡単に説明します。建築PMとは、一言で言うと、建物を建てる発注者の側に立って、建設プロジェクトを最適化するお手伝いをする仕事のことです。具体的には、建設プロジェクトの企画段階から参画し、建物の事業収益を最大化するための助言をしたり、建設市場のトレンドに合わせた発注戦略を考えたり、設計事務所の選定を手がけたり、工事の際の品質管理や進捗管理によって建設コストを削減したりと、建設プロジェクトの初期段階から完成までを一貫してサポートします。
 
弁護士は法律の専門知識がないクライアントの代理人として、クライアントの正当な利益を守るために尽力します。建築PMを手がけるプロジェクトマネージャーも基本的な役割は同じです。
 
建物を建てる発注者は設計会社や建築会社の人間と比べて建築に関わる知識がありません。建築プロジェクトでは建物のオーバースペックやコストの超過などがしばしば起きます。これは、発注者に知識やノウハウがなく、最適な発注ができていないことが一因です。こういった問題が起きないように、われわれプロジェクトマネージャーは発注者の代理人としてプロジェクトの最適化を実現しています。
 
現在、建築PMは当たり前のように活用されており、建築PM専業の会社もたくさんあります。でも、私が取り組み始めた1990年代半ばには、建築PMという市場は全くと言っていいほどありませんでした。米国などとは異なり、日本では設計事務所や建築会社が設計業務や施工業務を抱え込んでおり、外部の第三者にプロジェクトマネジメントを任せるというカルチャーがなかったからです。
 
その状況がおかしいと思った私は、われわれを信頼し、プロジェクトマネージャーに指名してくれた発注者とともに建築PMという概念を一般化させてきました。同業者が私のことを「建築PMのパイオニア」と呼ぶのは、そうした過去を見ていたからでしょう。
 
もっとも、インデックスコンサルティングを創業した1994年に今のビジネスの姿が見えていたわけではありません。日本の建築業界に持っていた違和感と私自身のビジネス上の危機感。それが重なって建築PMという市場が生まれたと考えています。
 
このあたりのことをご説明するには、インデックスコンサルティングを創業する以前の話をする必要があります。誇れるものばかりではなく、自分の恥をさらすような話もありますが、昔話に少々お付き合いいただければ幸いです。
 
材木屋の長男として生まれて
 
今でこそ、スタートアップを起業するのはごく当たり前になりましたが、私がインデックスコンサルティングを創業した1994年当時は、大学を出た人が企業に勤めるのは当たり前の時代でした。ただ、私の場合はどこかに就職するという選択肢は初めからありませんでした。
 
私は愛知県安城市の材木屋の長男です。「お前は材木屋を継ぐんだよ」と大好きだった祖母にずっと言われて育ったこともあり、私自身も大人になったら材木屋になるものだと思っていました。ただ、地元の大学を出る前に、外の世界を一度のぞいてみたいと思ったんですね。そこで、父に絶対に戻ってくるという条件で、米国に留学させてもらいました。1981年のことです。
 
留学先のカリフォルニア芸術大学(California College of Arts)ではインテリアデザインを専攻しました。インテリアデザインを選んだのは、材木を活用した商品開発に役立つと思ったからです。自慢するようで恐縮ですが、卒業間際に米国のIBD(Institutes of Business Designers)のコンペで2位になるなど、インテリアデザイナーとしての腕は悪くなかったと思っています。その後、インターンとして米国を代表する建築設計事務所SOMで働き、カリフォルニア大学バークレー校の大学院に進学しました。
 
もちろん外国人に対する差別がないわけではありませんが、当時の米西海岸は東洋人であろうが実力次第で評価する風土がありました。
 
今でも目に浮かびますが、カリフォルニア芸術大学に在籍していた時、ウェスチングハウスの副社長と面談したことがあります。ウェスチングハウスは原子力発電所の建設で有名ですが、当時はオフィス家具のビジネスを手がけていたんです。特につてがあったわけではありませんが、オフィス家具ビジネスについて話を聞きたいとアポを取ったところ、副社長自らが対応してくれました。若かったからでしょうが、「なんて心の広い国なんだろう」「この国で腕を試したい」と、米国の魅力にコロッとやられてしまったんですね(笑)。
 
ところが、その思いを父親に伝えると、父親は烈火のごとく怒りました。家業を継ぐ前提で海外留学に出したのですから、「約束が違う」となるのは当然ですよね。「お前は材木屋を継ぐんだよ」と言い続けた祖母も「戻ってきておくれ」と泣いて電話してきました。父親には反発しましたが、祖母に涙ながらに言われてはどうしようもありません。バークレー校を中退し、嫌々帰国することになりました。
 
そんな状況で戻ってきたものですから、父親とは毎日のように喧嘩でした。特に意見が合わなかったのは、父親が商品開発やマーケティングをちっともやろうとはしなかったことです。
 
レッドウッドの輸入で日本一に
 
もともと材木屋は殿様商売で、顧客は放っておいても来るものだという意識が強い業界でした。私が日本に戻った1986年当時でも、「売ってやる」という感覚が色濃く残っていました。私はそれが嫌で嫌で仕方なかった。「違うだろう」と。
 
木造建築が当たり前だった日本でも、徐々に軽量鉄骨や鉄筋コンクリートの建物が増えており、国内の材木需要はどんどん減少していました。これまでは黙っていてもお客さんが来てくれたかもしれませんが、これからは材木会社自身が新しい用途を開発し、魅力的なカタログを作り、設計事務所に提案していかないとじり貧になるのは目に見えています。
 
こんな話を父親にしても、「そんなところにカネを使う必要はない」と言うばかり。私も反発して顔を合わせるたびに口論していました。最後は父親を説得することをあきらめ、自分で勝手にビジネスを始めることにしました。
 
その時に手がけたのはレッドウッド材の輸入です。
 
実は、バークレー校を中退する前、どうせ日本に戻るのならと、新しいビジネスのタネを見つけるためにいろいろな会社を訪問して回ったんです。その時に、パシフィック・ランバー・カンパニー(PALCO)という製材会社の製材所にも行きました。カリフォルニアにあるPALCOはレッドウッドを扱う最大の会社です。山奥の製材所を訪ねると、山のような大男がレッドウッドを切っていました。
 
その後、日本に戻り、新たな商品づくりを考える中で、PALCOの存在がふと脳裏によぎりました。水に強いというレッドウッドの特性を生かした外装材をつくれるんじゃないかと考えたんです。実際、国内のエクステリアメーカーに企画を持ち込んでみると、木材を使ったエクステリアの開発には乗り気です。そのままカリフォルニアに飛び、PALCOからレッドウッドの国内における輸入・販売代理店の権利を取ってきました。
 
カーポートやウッドデッキなどの新商品を開発した後は、新しく用意した製品カタログを手に、東京の設計事務所を回りました。飛び込み営業を含め、1日に30件、40件を訪問した日もありました。おかげさまで商品は好評で、レッドウッドの輸入高で日本一を記録したほど。レッドウッドという木材を愛していたし、好きな商品を使ってもらうために営業することが本当に楽しくて仕方がありませんでした。
 
実の父に振り出した手形

そのころは愛知県の三河安城に住んでいたため、東京に行く時はいつも新幹線での往復でした。大げさに思われるかもしれませんが、三河安城に帰る新幹線の窓から東京タワーが見えると、いつもじんわりと涙が出てきました。材木屋はそもそも斜陽産業なのに、待ちの営業では未来がない。東京に出て一旗揚げたい、東京でビジネスがしたいと心の底から思っていたからです。
 
そしてある日、父親に東京でビジネスがしたいと伝えました。父親は当然反対で、最後は売り言葉に買い言葉で大げんかに。最後は「東京に行くなら仕入れた木材をすべて持っていけ」「手形を切れ」と言われました。
 
実際に会社を経営したことのある方でないとピンとこないかもしれませんが、企業が商品代金を決済する時に、手形という証券を使って取引することがしばしばあります。手形には支払期日と代金が書いてあり、お金を支払う方の企業が相手先に振り出します。その期日までに支払えば問題ありませんが、支払期日を過ぎても決済できなければ不渡りとなり、会社の信用力が著しく下がってしまいます。
 
当時、輸入したレッドウッドの在庫が8000万円ほどありました。その在庫分のお金を払って出ていけということです。それでも、東京でビジネスがしたかったので、1年半の期限で8000万円の手形を振り出しました。1年半のうちに8000万円を工面しなければ手形が不渡りになり、倒産してしまいます。一か八かの大ばくちですが、それしか方法はありませんでした。29歳、1989年のことです。

ある起業家の「自伝的記憶」(2)」へ続く

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