REPORTレポート

代表植村の自伝的記憶

12月に逝去された東京大学名誉教授、宮田秀明先生との思い出

今回は、昨年12月9日に逝去された東京大学大学院工学系研究科の宮田秀明・名誉教授について書こうと思います。
 
宮田先生は船舶工学の専門家でありプロジェクトマネジメントの第一人者。宮田先生とは20年来のお付き合いでしたが、その20年間で学んだことは数知れず、インデックスグループとしても大変お世話になりました。その感謝の意味も込めて、私と宮田先生のかかわりについて、ここに残させていただきます。
 
石川島播磨重工業(現IHI)での5年にわたる会社員生活を終えた宮田先生は、東京大学に戻ると、船舶工学の分野で数々の実績を残されました。
 
例えば、船に対する波と抵抗に関する研究によって自由表面衝撃波の存在を証明し、最適な船の設計法を開発、世界に広めたのはその一例。非線形水波減少のための数値モデルを開発し、計算機シミュレーションによる設計を可能にしたことで、世界の船舶の造波抵抗を削減することに貢献したことも宮田先生の代表的な成果です。その削減幅は従来の20〜50%と大きく、使用燃料の削減に伴う経済効果だけでなく、環境負荷の低減にもつながりました。
 
こうした貢献が評価され、2011年には日本学士院賞および恩賜賞を受賞されています。
 
また、東京大学工学部システム創成学科の設立や社会人を対象にしたMOT(Management of Technology:技術経営)プログラムの運営にも深く関与するなど、教育の分野でも大きな貢献を果たした方でした。
 
アメリカズカップでの躍進を支えた宮田先生

宮田先生と知り合いになったのは2000年代の初めですが、それ以前から私は宮田先生の大ファンでした。
 
ご存じの方もいるかもしれませんが、アメリカズカップという世界最高峰のヨットレースがあります。このアメリカズカップに挑戦するため、1980年代後半から2000年頃まで、私の故郷、愛知県にある蒲郡市に日本チーム「ニッポンチャレンジ」が練習拠点を置いていました。
 
のちに宮田先生は日本チームのテクニカルディレクターとして、船体の設計や試作、チームづくり、プロジェクト全体のマネジメントなどで大きな役割を果たしました。現に、日本チームは1992年、1995年、2000年の3回、アメリカズカップに挑戦し、2000年には予選で11チーム中2位の成績を収めましたが、その裏には宮田先生の存在がありました。
 
1995年にテクニカル・コーディネーターとしてチームに参画すると、2000年にはテクニカルディレクター&チーフデザイナーとしてヨットの設計に最先端のCFD技術(数値流体解析技術)を導入。さらに「技術経営」の下、新たなシステム開発を体系的に展開し、入賞の原動力になりました。
 
実は、私は大学時代、ヨット部に所属していました。当時はかなりのめり込んでおり、夏の間は蒲郡の合宿所に住み込み、練習に明け暮れていました。スナイプ級で全日本学生ヨット選手権に出場したのは小さな自慢です。そんなヨットを愛する者として、宮田先生は雲の上の憧れの存在でした。
 
プロジェクトマネジメントの第一人者でもあった

その後、私はアメリカに留学し、紆余曲折を経て東京で建築プロジェクトマネジメントの会社を立ち上げるのですが、駆け出しのプロジェクトマネジャーだった私にとって、『理系の経営学』や『アメリカズカップのテクノロジー』『プロジェクトマネジメントで克つ!』など宮田先生の著作は、プロジェクトマネジメントの本質を学ぶ格好の教科書でした。
 
書籍を通して学んだことはたくさんありますが、私の心に一番残っているのは、「ビジョンを持つ」という言葉です。
 
目先のスケジュールや予算を管理するのはプロジェクトマネジャーとして当然のこと。それだけではなく、プロジェクトを通したクライアントの事業の成功、あるいはプロジェクトを通して社会がどのように良くなるのかというところまで見通してプロジェクトを進めなければなりません。そのためには、ビジョンを持つことが不可欠。逆に、ビジョンがあれば、プロジェクトの途中で起きる艱難辛苦も耐えることができます。
 
私はさまざまな大規模プロジェクトのプロジェクトマネジメントを手がけましたが、「ビジョンを持つ」という宮田先生の言葉を意識するようになってからは、驚くほど仕事がうまく進むようになりました。目先のプロジェクトの成功だけでなく、クライアントの成功と社会にとってどういう意味があるのかということを考えるようになったからだと思います。
 
このように、宮田先生は船舶の設計だけでなく、船の航行を最適化するプログラムの開発やプロジェクトマネジメント、理系と経営の融合などさまざまな分野で功績を残されました。船舶の世界への貢献から学士院賞や恩賜賞を受賞されたのは当然だと思います。
 
その後、ニッポンチャレンジでの活動を終えられたことを知った私は、知り合いに紹介してもらい、宮田先生に会いにいくことにしました。憧れの存在だった宮田先生に、どうしてもお目にかかりたかったのです。実際にお目にかかった宮田先生は、颯爽としており、写真や映像で見たままの方でした。
 
以来、定期的に東京大学の宮田研究室に通い、プロジェクトマネジメントや経営について意見を交わすようになりました。大きな水槽がある宮田研究室です。ある時、私がヨットに乗っていたことを知ると、宮田先生は著書『ヨットの科学』にサインして渡してくれました。私の一生の宝物です。
 
宮田先生と取り組んだ東北の震災復興

私と宮田先生の関係は、初めのうちは押しかけの弟子と師匠という関係だったかもしれません。そんな関係が変わったのは、東日本大震災の時です。この時に、宮田先生と一緒に復興に関わることになったのです。
 
東日本大震災が起きた直後、宮田研究室を訪れた私は宮田先生から復興の役に立ちたいという相談を受けました。私もプロジェクトマネジメントの力で復興に協力できると感じていたので、もちろん二つ返事で賛成しました。
 
すると、宮田先生は研究室の机に地図を広げて、「ここにしよう」と岩手県大船渡市や陸前高田市のあたりを指さしました。理由を聞くと、一番被害が深刻だからということです。具体的にどう進めようかと悩んだこともありましたが、いろいろなご縁があり、大船渡市、陸前高田市、住田町の二市一町を軸にした「気仙広域環境未来都市構想」を進めることになりました。
 
以前の記事でもお伝えしたように、この時の復興は五葉山における蓄電システム付きメガソーラー発電所の建設、マイクログリッドなどの蓄電設備を備えた分散型エネルギーシステムの構築、大船渡駅周辺地区のまちづくりにおけるエリアマネジメントの導入(キャッセン大船渡)、気仙型木造復興住宅の建設、気仙全体の地域包括ケアシステムの構築(未来かなえネット)などの形で結実しました。今から考えれば、公共、民間、PPP(Public Private Partnership)による官民連携事業でした。
 
気仙広域環境未来都市構想(インデックス)
 
この復興では、いろいろなことがありました。
 
雲散霧消した定置型蓄電池工場構想

実は、私たちは当初、津波の被害を受けた陸前高田の平野部に定置型の蓄電池工場とアジア最大のメガソーラーを整備するという構想を持っていました。現在は中国が圧倒的な競争力を持っていますが、当時はまだ蓄電池はあまり注目されておらず、日本が技術的な優位性を持っていました。しかも、宮田先生の教え子に蓄電池の第一人者がおり、国や企業との連携が可能でした。
 
また、宮田先生は東日本大震災が起きる前から二次電池による社会システムイノベーションを掲げていました。そのために関係する企業を集めたフォーラムを主催、二次電池の社会資本化や電気自動車の普及、二次電池の定置利用の促進に取り組んでいました。今から振り返っても、先見の明があったと思います。
 
東北地方の沿岸は既に地域の少子化・高齢化が進行しており、将来的な復興を考えれば、雇用の場を作ることが欠かせません。それに、津波の浸水リスクのある平地は工場のような産業集積の場とし、居住エリアは高台に移すほうが合理的です。
 
復興とは元に戻すことではなく、今の時代に合った形で地域をアップデートしていくこと。であるならば、定置型蓄電池の産業集積を作り、地域に雇用を生み出すと同時に、メガソーラーと定置型蓄電池を軸としたエネルギーの自給自足が可能な街を作ることが気仙地域の復興にふさわしい。そう考えたのです。
 
もっとも、当時の被災地の心情は元の暮らしを取り戻すことが第一で、平地を定置型蓄電池工場とメガソーラーにするなどという提案は受け入れられるものではありませんでした。この構想を雑誌で語ってしまった宮田先生は当時の陸前高田市長から出禁を言い渡され、蓄電池工場の構想は霧散しました。
 
余談ですが、宮田先生からあるエピソードを聞いたことがあります。恩賜賞の授賞式で、天皇皇后両陛下に陸前高田市での蓄電池工場とメガソーラーの構想を説明したところ、上皇后美智子さまから、被災者の方々の日々の想いもくみ取ってくださいねとの言葉をいただき、返答に困ったそうです。
 
社会システムデザインの名に恥じぬように

その後、宮田先生が東京大学を退職したタイミングで、社会システムデザインを設立しました。会社の名付け親は宮田先生です。先生は常々、今こそ日本の社会システムを再設計しなければならないと話していました。宮田先生にとって、東日本大震災からの復興やエネルギー社会システムの構築は、さまざまなプロジェクトを通じて積み上げられた先生の構想力や能力を社会に役立てたいという想いの発露だったのだと思います。
 
日本で社会システムデザインの本質を語ることができるのは、宮田先生を除けば、東大エグゼクティブ・マネジメント・プログラム(EMP)で連携された社会システムズ・アーキテクトの横山禎徳氏ぐらいだと思っています。
 
宮田先生から委ねられた社会システムデザインの社名に恥じることなく、グローバルの場でソーシャルシステムのリデザインや社会システムの改革にプロジェクトマネジメントを通して挑んでいく。それを、この場を借りて宮田先生に改めて誓いたいと思います。
 
最後に、宮田先生の言葉を記して終わりにします。
 
「これまで情熱を持って挑戦し、感動の美酒を楽しむことを学生諸君や民間企業の方々と続けてきました。これからの日本にとっても、このような活動が大切だと思います。リスクと責任を取って挑戦することの大切さを思い、実行する人がもっと増えてきてほしいと思います。ぜひ皆様も健康に留意されながら、素晴らしい日々を過ごされることを祈念します。大変ありがとうございました。」
 
【2025年2月6日掲載】
※このレポートは2025年1月27日にLinkedInに掲載したものを一部編集したものになります。

 

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